〔2010年3月28日23時18分世界線変動率──1.130426%〕
「冗談じゃないわッ。こんな大事な時期に、なんで私が‥‥ッ」
後輩がデスクで荷造りをしている。しかも、朝からずっとこの調子だ。眉間にしわを寄せながらブツブツブツブツ‥‥とにかくうるさくてかなわない。
「ね、ちょっと?」
比屋定真帆は論文を作成する手を止め、後輩のデスクの方を振り返った。
「いい加減にしてくれないかしら」
ヴィクトル・コンドリア大学の各研究所内では、基本的に英語が公用語として使われている。他の研究員や教授たちが一緒にいる時は英語が当たり前なのだが、同じ日本人である彼女とふたりきりの時は日本語を使うことも多い。
「え? あ、なにがです?」
「うるさくて集中できないのよ。この論文、明日までに教授に提出しないといけないんだけれど」
「もしかして、私‥‥ひとりごと言ってました?」
「騒音公害で訴えてあげようかしら」
「すみません」
我に返った後輩が頭を下げ、それから後ろ頭をポリポリとかいた。
真帆は、ため息をつきながら立ち上がる。首の後ろで無造作に束ねただけのくしゃくしゃの黒髪が、肩甲骨あたりをなでるように躍った。
資料の並んだ書棚へ行くと、必要な文献を探しはじめる。
「ぐっ‥‥?」
おのれ‥‥これは誰かの嫌がらせに違いない。きっとそうだ絶対にそうだ。
真帆は、最上段にこれ見よがしに積まれた分厚い本を、うらめしそうに見上げた。
やがて、決心したようにその本に手を伸ばす。
「うう~ん‥‥」
必死になってつま先立ち。白衣の袖口からこれ以上は無理というくらいに伸ばされた腕が、ぷるぷると震えている。
(なんて細くて、頼りない腕なんだろう)
生白い肌色を見ながら自分でも情けなく思う。なにかちょっとでも無理をすればポキリと折れてしまいそうだ。
彼女は太平洋戦争前に移民してきた沖縄人の末裔だが、親戚縁者の男たちはみな骨太で力強く、肌も逞しい褐色をしている。ところが女性たちはというと、曾祖母も祖母も母も小さく華奢で、どこか弱々しくさえあるのだ。真帆はどうもそちらの血を引いてしまったらしい。
陽が落ちてから外を歩いていると必ず警官に呼び止められ、身分証明証を見せてもバーなどには入れてもらえず、ドラッグストアでは薬品も酒も簡単には買えない。屈辱的なことに、どこへ行ってもミドルスクールの子どもと間違えられるからだ。二十一歳だと主張しても誰も信じてくれない。
(ダメだわ‥‥届かない)
そもそも、アメリカではなんでもかんでもサイズが大きすぎる。
「あの? 取りましょうか?」
よく出来た後輩が真帆の危機的状況に気づき、急いで寄ってきた。なんだか意地になって、平静を装い言い返す。
「大丈夫よ。別に困ってなんかいないもの」
「困ってるじゃないですか」
「困ってません」
「そうですか?」
「そうです」
「でも、私も借りて行きたい本があるので」
後輩はそう言うと、書棚の最上段に易々と手を伸ばし、真帆が欲しかった本を手に取った。
「‥‥背が高い人はいいわね」
「いえ、私もそれほど高い方では‥‥あっ」
後輩は、自分が言ってはいけないことを口にしたと気づいたらしい。手で口をおさえた。
むぐぐ、こいつめ、人のつむじを見下ろしやがって‥‥と内心穏やかではない真帆であったが、そこはそれ、先輩として度量の大きいところを見せておかなくてはならない。
「ありがとう、助かったわ。日本でなにか必要なものがあったら言ってね。送ってあげるから」
「はい、ありがとうございます」
彼女は礼を言いながら本を手渡してくれた。
それから、ふと思いついたように目をキラキラと輝かせる。
「ね、先輩? 今の話ですけど」
「今の話って、どの話?」
「〝ひとりごと”ですよ」
「え? ああ‥‥」
もう過ぎた話題だと思っていたので、真帆はふいをつかれた。この後輩はいつも唐突にアイデアを思いつき、真帆を驚かせてくれる。
「それって〝自我”の証明のひとつになるんじゃないでしょうか?」
「"Amadeus"の?」
「はい」
「確かに、あの子がいきなりひとりごとを言い出したらビックリするけど‥‥」
なるほど、と思った。どんなに優れた人工知能であろうと、そういうプログラムをしない限りひとりごとなど言わない。そもそも、そんな機能を持たせる意味も必要もない。
確かに、自我の発現を観測するにはいい手段のひとつになるだろう。
しかし──。
「ここでは、めったなことを口にするものではないわ」
真帆は少しだけ声をひそめ、人差し指を唇に当ててみせた。
「〝魂”は神が人間に与え賜うたもの──そう考える人たちが多いことを忘れないで」
「‥‥。そう、でしたね」
彼女の輝いていた表情が、すうっと曇った。
ただでさえ、この優秀すぎる後輩と真帆は研究所内で異端なのだ。どんな難癖をつけられて追い出されるか分かったものではない。
主任研究員のレスキネン教授がいるから助かっているものの‥‥そうでなければ、ふたりとも今頃ここにいないかも知れない。
真帆は後輩の肩をポンと叩いた。
「まぁ、しばらく日本でリフレッシュしてくることね」
「それが納得いきません」
「どうして? 向こうの生活だって楽しいと思うけれど」
「留学なら大学院にすべきです。なんで高校なんですか」
「仕方ないでしょう? 日本では、年齢的にあなたはまだ高校生なんだから」
「‥‥」
「教授の思いやりは素直に受けておきなさいな」
──彼女はナーバスだからね。足の引っ張り合いでストレスも限界にきてるようだ。このままだと研究者としてダメになるかも知れない。
レスキネン教授の心配そうな顔を思い出しつつ、真帆は言った。
「それに、もともと7月になれば、日本に行かなくちゃいけなかったんだから、ちょうどいいじゃない」
「はい。実はそれも憂鬱で‥‥」
「アキハバラ・テクノフォーラム、だったかしら?」
「講演なんて慣れてないし。なにをどうしていいのか」
「サイエンス誌に論文が載った以上、これからもどんどん増えるわよ。練習しておかないとね」
「‥‥。やだな」
後輩がそうポツリとつぶやいた。
真帆もおおぜいの人の前でなにかするのは苦手だ。だからその気持ちはよく分かる。
けれど、権威ある科学誌で論文を発表して、講演を行えるほどになりたいと願う研究者はたくさんいるのだ。それらの多くを蹴落として栄誉を勝ち取ったのだから妬まれもする。きちんと責務を果たさなくては、それこそなにをされるか分かったものではない。
(なんて‥‥私もけっこう性格がゆがんでるのかもね)
妬んでいる研究者──もしかしたら、その中に自分も含まれるんじゃないか? そんな恐れを真帆は常に抱いているのだ。
なぜなら、目の前の才女はあまりにも自分と違いすぎている。なにもかも自分より優れすぎているのだから。
「先輩?」
不思議そうな表情で顔を覗き込まれ、真帆は慌てた。
「う、ううん、なんでもないわ。ええっと‥‥日本でお父さんには会うの?」
彼女の両親は、離婚こそしていないものの別居状態だと言っていた。確か、父親だけが日本に住んでいるはずだ。
口にしてしまってから、あまりプライベートに踏み込んだ質問はよくなかったかな? と思っていると、後輩は少しだけ嬉しそうに、
「実は、父から招待状が届いたんですよ」
「へぇ?」
「夏ごろ、新しい理論の発表会をするそうです。それを見に行こうかと思ってます」
「新しい理論って?」
「えっと‥‥」
彼女の笑顔がちょっとだけ困った様子に変わった。そして、しばらく迷っていたが、
「まだ、詳しく聞いてないんですよね。相対性理論に関することらしいんですけど‥‥」
「ふ~ん?」
歯切れの悪い物言いに真帆は違和感を覚えたが、それ以上詮索するのはやめにしておいた。
「とにかく気をつけて行って来ることね。おみやげ期待しているから」
「なにがいいですか?」
「そうね。せっかくアキハバラに行くのだから、なにか珍しいものがいいわ。──アキハバラ、詳しいのよね?」
「えっ? なんでです?」
「休憩時間に、よくそういうサイト見てるじゃない」
「う‥‥っ!」
どうしてバレてるのという顔つきになる後輩。
「まさか、"Amadeus"が喋ったんですかっ?」
「あの子はそんなことしないわ。あなた、私が後ろにいるのに、動画に夢中になってて気づかないことがあるわよ?」
「はううっ! ‥‥お、お願いです、どうか他の人たちには内密に」
「別に隠すことないと思うけど‥‥言わないでおくわ」
真帆は苦笑しつつ、自分の席に戻ると再び論文の続きに取りかかった。
後輩もデスクの上で荷造りを再開する。
「──ね?」
「はい?」
「あなたが日本から戻ってきたら、"Amadeus"がひとりごとをつぶやけるかどうか、ふたりで検証してみましょう」
「はい!」
後輩は顔を上げて、心底楽しそうに応えた。
それは、未知への探求が好きで好きでたまらない生まれついての科学者の顔だった。まるでおもちゃを与えられた幼子のように無邪気で破戒的で、そして、なんて美しい──真帆はそう思った。
‥‥だが、しかし。
ふたりのその約束は、結局、果たされることはなかった。
それからわずか四ヵ月後──比屋定真帆の元に訃報が届いたからだ。
7月28日。日本時間午後12時39分。
牧瀬紅莉栖は、滞在中のアキハバラで刺殺された。