試し読み

特典小冊子掲載「遙遠のヴァルハラ」試し読み

【ヴァルハラ】

 ——北欧神話において、主神オーディンのいる宮殿の名。

[21,DEC,2011 AM11:31]

 1年半ぶりに見る彼女は、凛として、人を寄せ付けないオーラを纏っていた。

 ある意味でそれは、あの頃となにも変わらず心を張り詰めさせているんだと手に取るように分かったし、そうさせてしまった責任の一端が俺自身の“迂闊さ”にあるということを改めて痛感させられもする。

 肌を刺すような12月の欧州の冷気は、誰もが外出を躊躇するほど。そんな中、彼女は屋外テラスの隅に1つだけ置いてあるベンチに、背筋をピンと伸ばして座っていた。

 SERNのフランス側敷地内にある、アパルトマンのような洒落た建物。

 その3階にあるテラスからは、他の研究施設などに囲まれているせいで周囲ののどかな田園風景はあまり見渡せない。眼下の中庭にも人の気配はなく、枯れて葉の落ちた木々のせいで寂しさすら感じる。

 世界最高峰の素粒子物理学研究所。だが、雰囲気は日本の大学とさほど変わらなかった。

 彼女は俺に気付いていないようで、遠くの空あたりをじっと見つめている。

 なにを、思っているんだろう。

 分からない。分からないが——

 彼女の顔の形を。

 彼女の声を。

 彼女の仕草を。

 俺は、はっきりと思い出すことができる。

 ずっと、再会したいと願っていた。

 1年半ぶりになる。

 考えてみれば、一緒に過ごしたのはわずか2週間弱。だから、離ればなれになっていた時間の方が遙かに長い。

 それでも、彼女は俺の大切な仲間の1人なんだ。

 涙が出そうになるのをグッとこらえ、周囲に他に人がいないのを確認してから、俺は彼女の座るベンチの横に立った。

「え……?」

 ビクッと身を竦ませて、彼女が俺に気付く。

 目が合った。

 驚かせることには成功した。彼女の表情がそれを物語っている。

「助手よ——」俺はあえて、その呼び方を使った。「久しぶりだな」

「岡部、あんた……なんで……」

 牧瀬紅莉栖は、呆然としたまま腰を浮かせる。

「お前を、迎えに来た」

「…………」紅莉栖は絶句していたかと思うと、「プッ……」

 ちょっ、真面目に話してるのに、なぜいきなり吹き出すのか!

「かっこつけちゃって。厨二病乙だな……。1年半ぶりなのに、相変わらず鳳凰院凶真ってるのね」

「俺の真名を勝手に助動詞として使うな」

 それに、こう見えても鳳凰院凶真モードに戻ったのはつい最近のことなんだ。要するに虚勢を張っているというわけだ。今だって実を言うとずっとビクビクしている。自分がいかに危険な橋を渡っているかを考えると、膝が笑いそうになる。だがそのことを、あえて紅莉栖には伝えなかった。

「……助手、か」

 寂しそうに、彼女は苦笑し。

「あんたには、あの頃、いろいろ適当な呼ばれ方してたわよね……。クリスティーナとか、ゾンビとか。まともに呼ばれたことなんて、一度もなくて。今、あんたに聞きたいことはいっぱいあるのに……どうして、そんなどうでもいいこと、思い出すんだろう……」

「お前には、済まないと思っている」

「謝るな」

 紅莉栖は小さく肩をすくめると、ゆっくりと立ち上がり、俺に向き直った。

 一歩ずつ、確かめるように、俺へと歩み寄ってきて。

「ねえ岡部。私は……今でも、ラボメンかな?」

「当たり前だろう」

「よかった……」

 と、不意に紅莉栖は顔をくしゃくしゃに歪めると、俺の胸にしがみついてきた。

「もう二度と、会えないと思ってた……」

 その紅莉栖の細い身体を、しっかりと抱き留める。

 彼女の温もりを、そこに彼女がいるという現実を、全身で確かめたくて。

 紅莉栖の身体は、この寒さのせいで冷え切っていた。

「あんたや橋田は、もう死んじゃったんじゃないかって……っ」

「迎えに来るのが、遅くなったな」

「だから、いちいちスカしたこと言うんじゃない、この厨二病……ぐすっ」

「クリスティーナ……」

「な、泣いてなんか、ないんだからなっ」

 どう見ても泣いていた。声だって震えていた。

 だが、昔のようにそれを無邪気にからかうことは、今の俺たちにはできなくなっていた。あの、なにも知らずただ知的好奇心だけでなんとかなると思っていた頃とは、すべてが、決定的に変わってしまっていたから。

 それに今は、再会を喜んでいるほどの余裕はない。

「クリスティーナ、ここから抜け出すぞ」

「抜け出すって、どこへ——」

「言っただろう。お前を迎えに来たと」

「じゃあ、本気で……?」

「SERN脱出作戦。コードネーム、オペレーション“天国へ至る道”だよ。一緒に、秋葉原に帰ろう、紅莉栖」

[21,DEC,2011 AM11:36]

 すべてが変わってしまった、1年半前。

 ただの大学生だった俺から、日常が奪われた日。

 ——あのときの銃声を、今も幻聴として聞くことがある。俺の大切な“人質”はそこで頭を撃ち抜かれ、還らぬ人になった。

 ——あの文字を、今も瞼の裏に思い出すことがある。“失敗した”という絶望で埋め尽くされた手紙を受け取った俺は、世界の意志がいかに残酷な結末を望んでいるかを思い知った。

 どちらも、そうなるよう因果を歪めてしまった自業自得。分かっていても、その理不尽な現実を受け入れるまで、1年半かかった。

 大切な仲間が2人、俺の迂闊な行動のせいで、犠牲になった。

 そのうちの1人は、俺の“人質”であり。

 もう1人は、未来から来た“親友の娘”だった。

 多くの犠牲を前にして、俺は、結局なにもできなかった。受け入れるしか、なかった。

 そうして今、ここにいる。

 SERN。

 2034年に、タイムマシンの開発に成功して世界にディストピア社会を構築する、素粒子物理学研究所。300人委員会直属の研究機関。まゆりの仇。鈴羽の敵。俺たちを軟禁した張本人。

 すべては、俺たちが偶然にもタイムマシンを作ってしまったことに端を発する。

 その事実は、同じく極秘裏にタイムトラベル研究を行っていたSERNの、非公式下部組織であるラウンダーによって突き止められてしまった。

 忘れもしない。2010年8月13日。俺たちがラボと呼んでたまり場にしていた、秋葉原の片隅にある雑居ビルの一室に、ヤツらは襲撃を仕掛けてきた。

 そこでまゆりは撃たれ。

 俺はそれを否定するために過去へと戻り。

“ジョン・タイター”であり2036年からのタイムトラベラーであった阿万音鈴羽と協力して、未来そのものを大きく変えようとした。

 だがそれも“失敗”し。

 鈴羽は西暦2000年に自殺し。

 俺は、鈴羽の想い出を消すというDメールを送ることができず。

 何度かタイムリープマシンを使って悪あがきをしてみたが、それも無駄に終わった。

 俺が“諦めてしまった”ことで、未来は改変されず、まゆりはまたも頭を撃ち抜かれて死んだ。

 タイムマシンは奪われ、俺たちはラウンダーに捕らえられて、このSERNへと連行された。

 俺と橋田至は紅莉栖とは別の場所に軟禁され、互いの無事を確かめることもできないまま、1年半が経っていたんだ。

 あまりにも長い1年半だった。でもそろそろ終わりにするときだ。

 世界線変動率0.334581%。

 それが、俺が秋葉原を離れる直前に観測した世界線の数値であり、あれから一度も、リーディングシュタイナーは発動していない。

[21,DEC,2011 AM11:47]

 紅莉栖のいた施設は、外見は洒落ているが、内部はさながら隔離病棟だった。

 窓に鉄格子がはまってはいないが、紅莉栖が居室としてあてがわれている部屋の天井には、監視カメラが設置されていた。プライバシーは完全無視、というわけだ。もちろん俺やダルが軟禁されていた別の施設も、似たような状況だった。ダルは「床オナすらできんとかふざけんなー!」といつも嘆いていたものだ。むしろお前がふざけるなと言いたい。

 俺は紅莉栖を連れて、テラスのある3階から1階まで駆け下りた。1階廊下の途中には、コンピュータ制御でロックされる鉄格子のゲートがある。今、それは開放されていた。

「岡部、これって……」

 鉄格子をくぐり抜けようとしたとき、紅莉栖が俺の手を振り払い、立ち止まった。

 青ざめた表情。視線は、鉄格子のすぐ脇へと向けられている。

 そこに、屈強な男が倒れていた。

 24時間態勢で交代勤務をしていた警備員だ。ゲートのロックは、この警備員が持っていた鍵を拝借させてもらったというわけだ。

「あんたが、やったの……?」

「眠らせただけだ」

 言外に、“俺はラウンダーとは違う”という意志を含ませて、素っ気なくそう答えた。

 この男が毎日必ず、同じ時間に同じ場所のコーヒーサーバーを利用するという事実を、1ヶ月ほどの下調べで突き止めたのだ。後はそこに睡眠薬を仕込んでおくだけだった。

「それより急ぐぞ。そろそろラウンダー連中が異変に気付く」

 ヤツらは、紅莉栖の部屋の監視カメラで常に覗き行為をしているはずだ。さすがにいつまでも紅莉栖が部屋に帰ってこないことを不審に思うはず。

「ラウンダー……」紅莉栖の表情が歪む。「ここにも、いるのか。いるわよね、そりゃあ」

「俺たちをここに連れてきたのは、ヤツらだからな」

「橋田は? 今どこに?」

「案ずるな。ヤツは相変わらずのHENTAIだよ。この作戦の言い出しっぺも、ダルだからな」

「あいつが岡部よりやる気見せるなんて、意外ね」

「今年の冬コミマになんとしても行きたい、というのが動機だ」

「あえて言おう。カスであると」

 相変わらず紅莉栖は俺やダルには容赦がないな。嬉しくなってしまう。別にドMだからというわけじゃないぞ。

 ロビーを抜けて、正面の入り口から外に出た。スイスとフランスの国境付近であるここは、秋葉原に比べるとずいぶん寒い。

 人はほとんどいない。秋葉原や池袋の雑踏を考えると、寂しさを覚えるくらいだ。だから外を出歩くだけで目立ってしまう。

 警備員の姿がないのを確認して、俺は早足で歩き出した。

「どこへ向かう気? 空港?」

 ジュネーブ国際空港はここから数キロの距離だ。日本へ帰るならそこへ行くのが一番手っ取り早いだろう。プランAとして俺も真っ先に考えた案だが、リスクが大きすぎるという結論に達したのだ。

「いや、プランBで行く」

「そのプランBとやらについてkwsk」

「LHCに向かう。そこで合流した仲間が、ヘリを持ってきてくれるという話だ」

「ちょっ、ヘリって、その仲間、何者よ?」

「ダルを通して知り合ったヤツでな。一度も会ったことはないが、この作戦はそいつがいなければ実現不可能だった。通り名しか知らないんだが、そいつの名は——」

 俺は一度立ち止まり、紅莉栖へと向き直った。

「疾 風 迅 雷 の ナ イ ト ハ ル ト」

「また厨二……? ナイトハルトとか名乗ってるけど、日本人なんでしょ?」

「ダルの説明だと、日本のネットゲーマーらしい」

 ダルに、ナイトハルトの素性について具体的に説明してもらったことがある。

『疾風迅雷のナイトハルトっつったら、エンスーやってるヤツなら知らないヤツはいねーし。ブラチューの星来好きで有名。僕はエリンたん派だけに、ナイトハルトとはいつかやり合わないといけないと思ってたわけだが。まあ、マジレスすると2年前の渋谷地震直前にあった、エスパー騒動って覚えとらん? あれでスクランブル交差点に現れた冴えない高校生がナイトハルトの中の人って噂だお』

 その話をありのままに伝えたら、紅莉栖は顔をしかめた。

「ふむん。エスパー騒動云々はチラッと聞いたことがある」

「腕は確かだ。ネットには精通してるし、人脈もすごい……らしい。ダルもかなりのものだが、その上を行くほどだ」

「信用しても大丈夫なのかしら」

 答えようとしたそのとき、遠くでホイッスルの音が響いた。

 ギクリとして音の方へ目を向けると、自転車に乗った警備員が笛を吹きながらこちらに向かってくるところだった。

「くっ、見つかった!」

 急いで逃げようと、紅莉栖の手を取る。その直後。

 パン、という乾いた発砲音に、耳を疑った。

 銃を、撃ってきた?

 ホイッスルを吹いた警備員の後ろに、さらに2人の男が姿を現していた。どちらも俺たちに銃口を向け、フランス語でなにかを怒鳴っている。

 なんの躊躇いもなく、なんの警告もない発砲。

 無茶苦茶にも程がある。

 2人とも警備員の格好はしていなかった。

 かと言って、この距離からでも判別できる鍛え上げられた肉体は、素粒子物理学の研究者としては異質すぎる。つまり連中の正体は——

「ラウンダーめ、予想以上に対応が素早い! 紅莉栖、逃げるぞ!」

「で、でもっ、あの人たち、銃を……!」

 紅莉栖は身を竦ませてしまっている。

 走り出すタイミングを逸した俺は、紅莉栖をかばうようにその肩を抱き寄せた。

 警備員を含む、ラウンダーと思しき3人の男たちとの距離は、およそ20メートル。連中は、敷地内を貫く一般道を挟んだところまで迫ってきていた。

 ここで立ち止まっていたら、さらに増援を呼ばれて、脱出する前になにもかも終わってしまう。

 でも、少しでも動けば、ヤツらは躊躇無く撃ってくるだろう。

 この距離で発砲された場合、命中する確率はどれぐらいだ?

 俺に当たるだけなら、まだいい。

 だが紅莉栖に当たってしまう可能性だって、ゼロじゃない。俺がどれだけ身体を張って守ろうとしたって、確率をゼロにすることなんてできるわけがない。

 それを考えると、冷静ではいられなくなる。

 どうしたらいい? どうしたらどうしたらどうしたらどうしたら——

 パニックになりつつあった。

 最初に笛を吹いた警備員が、すでに道路を渡ろうとしている。

 逃げるべきか。迎え撃つべきか。

 そのどちらも失敗するように思えてしまって。

“鈴羽の手紙”を初めて読んだときのような絶望感が、喉の奥からせり上がってくる。

 激しい嘔吐感。

 ダメだ。俺はまだ、1年半前の出来事から、立ち直れていない——

 そのとき、短いクラクションの音とともに、一般道を車が通り過ぎていった。

 男たちの注意が、一瞬逸れる。

「今だ!」

 気が付けば、紅莉栖の手を引いて夢中で走り出していた。

 背後から複数の銃声がこだまする。

 ゾッとする。恐ろしさに、情けなくも悲鳴を上げたくなるのを、歯を食いしばって耐える。

 命中したら、死ぬ。それをイヤでも意識させられ、全身に鳥肌が立つ。

 ——蘇る光景は。

 ラボの床に、血を流したまゆりが倒れている。

 ぴくりとも動かない、幼なじみの少女。

 見開いたまま光が消えた瞳は、恨めしげに俺へと向けられていて。

 俺の視界は、赤い血の幻影で染まっていった。

[21,DEC,2011 AM12:03]

 非常階段には、赤い非常灯だけが灯っていた。

 ——これは幻影じゃない。

 数段下りるたびに、そのことをいちいち自分に言い聞かせる必要があった。

 薄暗く、そして長い長い階段。

 途中には、ドアらしいものは一切ない。

 地上から地下100メートルまで、完全に一本道だ。

 下からは、断続的に地鳴りのような音が響いてくる……ような気がする。

 さながら地獄への門だ。

 その門を目指して、俺と紅莉栖は駆け下りていく。何度か足を踏み外しそうになるが、止まっている余裕はなかった。

「ねえっ、傷は、平気っ?」

 後ろからついてくる紅莉栖が、息を切らしながらもそう尋ねてくる。

 俺の足からは血が流れていた。

「かすっただけだ。少し痛みがある程度だから、心配するな……!」

 あれだけ乱射されたのにこの程度の傷で済んだのは、ラウンダーの腕が悲しいほどヘタクソだったのか、あるいは——

 そういう結果に収束するからなのか。

 とにかく紙一重で生き残れることができた。

 今下っている階段は、SERNの地下100メートルに建設された全長27kmのリング状トンネル、《ラージハドロンコライダー:LHC》へと繋がる、普段は使われることのない非常階段だ。

 紅莉栖が軟禁されていた施設から、最も近い“LHCへ下りられる通路”がここだった。

 鍵を壊してここに侵入し、下り始めてそろそろ5分。

「はあっ、はあっ、はあっ……」

 紅莉栖の息が荒い。階段を下る足取りが見るからに遅くなってきている。

「止まるな、クリスティーナ! もうすぐ、地下に着くっ。それまで、耐えろっ」

「わ、分かってるわよ……っ」

 おそらく、さっきのラウンダーの連中は追ってこない。

 それこそが、プランBの狙いであり、空港ではなくわざわざこうして地下へ逃げ込んだ理由だ。

 それでも念のために、地下にたどり着くまでは足を緩めるわけにはいかなかった。

 やがて、唐突さすら感じるほどなんの前触れもなく、永遠に続くかと思われた階段が終わりを告げた。

 鍵のかかっていない金網フェンスの扉を軽く押すと、きしんだ音を立ててそれは開いた。

 俺たちは無言のまま、肩で息をしながら扉をくぐり、トンネルへと降り立った。

 ここが、LHC。

 世界最大の、素粒子加速器。

 幅と高さが3メートルほどのトンネルの壁は、コンクリートが剥き出しだ。あまり狭苦しさは感じないが、緩やかにカーブしており先の方まで見通すことはできない。

 非常階段の薄暗さとは対照的に、等間隔で照明が配置されているため、かなりまぶしく感じられた。

 去来した不安を打ち消そうと、わざと芝居がかった口調で俺は声を出していた。

「ここはウロボロスか、ホイールオブフォーチュンか……!」

「ノリノリだな……。でも、そういうのは、今は、やめて……」

 紅莉栖はクスリともせず、自身の二の腕を抱きしめている。

「ねえ、さっきの、人たち……追ってくる、可能性は?」

「ヤツらは来ないさ。ここでは、今まさに、実験が行われてるからな」

「実験って、陽子−陽子衝突実験?」

「それは、表向きの話だろ? 俺たちは、1年半前、SERNがやっている“本当の実験内容”について、知ったはずだ」

「Zプログラム……!」

 ミニブラックホール生成と、それを利用したタイムトラベル実験。10年前の2001年から極秘裏に行われていたその実験の内容は、非人道的なものだ。生成されたミニブラックホールに被験者を放り込むことで、彼らは本当に遠い過去へとランダムで飛ばされる。その生死については、まったく考慮されない。

「ミニブラックホールが作られているところに下りてくるなんて、自殺行為よ……! ゼリーマンレポートを、忘れたの……!?」

「忘れるわけがないだろ。むしろ覚えてたからこそ、ここに逃げ込んだんだ」

「あ、そうか……。だからラウンダーの連中は……」

 ヤツらもゼリーマンになる危険は避けたいらしい。

 立ち入り禁止中のLHCは、まさに逃走ルートに打ってつけというわけだ。

 危険は承知の上。それでも、ラウンダーから逃げるためにはリスクを冒すしかなかった。

 もちろん俺は、トンネル内に無造作にブラックホールが出現しているといったような事態はあり得ないことを把握している。そんなことになっていたらLHCは——というよりSERNは、とっくの昔にクレーターと化していただろう。

 だがそれでも危険なことに変わりはない。ラウンダー連中が追ってこないのが、その証拠だ。

 一度稼働を始めたLHCは、そう簡単には止められないとも聞いている。

 これで、逃げるための時間を稼ぐことはできそうだった。

 と、ポケットの中でケータイが振動する感触があった。急いで取り出す。

「ケータイ、持ってるの? 私なんか、ここに連れてこられたときに取り上げられて以来、持たせてもらえないのに」

「ナイトハルトにこっそり提供してもらったんだ」

「日本からわざわざ送ってきた?」

「ヤツのすごいところは、ネットを駆使して世界中どこからでも、どこにでも、望みの物を具現化できることだよ」

 ちょっとファンタジーっぽい言い回しをしてみたが、実際に体験した身としては魔法と言われても不思議じゃなかった。どんな手回しをすればその荷物が届くのか、不思議でしょうがなかった。

 おっと、それよりも電話だ。このケータイにかけてくる相手は、1人しかいない。

「もしもし、俺だ」

『オカリン、牧瀬氏とは合流できたん?』

 かけてきたのは予想通り、ダルだった。

「ああ。予定より遅れ気味だがな。ちょうど今、フェイズ3まで完了した。状況は?」

『オカリン久々に生き生きしてんな、厨二的な意味で。今のところ科学者連中はLHCを止める気はないみたいだお』

「ならば、フェイズ4は変更無しだな?」

『あと2時間以内に、合流ポイントに到着しないとまずいお。行ける?』

「間に合わなければ終わりだ。たどり着いてみせるさ。お前も気をつけろ。この作戦を成功させて、必ず有明で初日の出を見るぞ」

『うひひ、当たり前っしょ。人類の科学を発展させてきたのは、戦争と、エロだお』

 呆れてため息が出そうになったので、通話を切った。

 LHCは今まさに、Zプログラムのタイムトラベル実験を行おうとしている。おそらくは今回も人体実験だろう。なにも知らされていない被験者がどこかで待機しているはずだ。

 今の俺たちに、その被験者を助け出す術はなく。その身を案じている余裕もない。

「橋田は、どこから電話を?」

 紅莉栖は額ににじむ汗を拭った。こいつも運動は苦手だったな。

「俺とは別行動ですでにLHC内に入っている」

「え? そうなの?」

「ああ。ハッキングをかまして、今頃SERNを大混乱にしてるはずだ」

 ラウンダーの対応が鈍いのも、その影響だ。

 ようやく息を整えた俺は、改めて周囲を見回してみた。

 トンネル内に人の気配はない。

 耳に入ってくるのは、地鳴りのような音だけ。実験中であることを考えると、静かすぎるとも言える。あるいはこれがLHCにとっては“普通”なのか。

 目に付くのは、トンネルのど真ん中に鎮座する、銀色に輝く“パイプ”のようなものだ。全長27kmのトンネルは、この直径1メートル弱ほどの“パイプ”のようなもののためだけに作られた。

 素粒子加速器。加速空洞と言い換えることもある。この“パイプ”のようなものこそが、LHCの本体。

 それを想像すると、“パイプ”の表面に触れることすら躊躇してしまった。あり得ないだろうと分かってはいても、少しでも触れたら爆発でもするんじゃないかという恐れがある。

「見ろ、クリスティーナ。今まさに、この中を光速の99.9999991%という凄まじいスピードまで、陽子を加速している最中なんだぞ」

「……そうね」

 紅莉栖はその“パイプ”に、興味を示そうとしなかった。

 それどころかできるだけ近づかないように、壁際にたたずんでいる。

 変だな。こいつは無類の実験大好きっ娘であり、好奇心旺盛な理系人間だったはずなのに。俺の知る紅莉栖なら、真っ先に興味を示したはずだ。

 目で問いかけてみる。

 俺の視線に気付いた紅莉栖が、気まずそうにトンネルの先へと視線を移した。

「……岡部は、怖くないの?」

「お前は、怖いのか?」

「…………」

 好奇心よりも、恐怖が上回っている、ということか。

 さっき撃たれたことも影響しているのかもしれない。

「それより、どっち?」

 どっちへ進むのかと聞きたいらしい。

 ご丁寧にも、壁にはフランス語と英語とで、案内が出ていた。

 ナイトハルトとの合流ポイントは、“CMS”と呼ばれる、LHCに複数ある観測所のうちの1つだ。

「ふむん。ここからだと、LHCのリングのほぼ正反対の位置か。けっこうな距離ね」

「だが一番守りが手薄だった、ということさ」

「上から、先回りされるんじゃ……?」

「そのためのダルのハッキングだよ。目くらましはしてある」

 それに、SERNは要塞などではない。ラウンダーがSERN内部に多く待機しているわけでもない。すべてのLHCの出入り口を固めることは、物理的に不可能だ。そこに、付け入る隙が生じる。

「ここから合流地点まで、2時間弱で走破しないとならない」

「距離は?」

「だいたい10kmぐらい、か……」

「単純計算で時速5kmか。早足で行けばなんとかなる距離ではあるけど……」

「ヤツらが追ってこないという保証はない。それにお前は、10000メートル走をしたことがあるのか?」

「ないけど……」

 俺はうなずくと、再び紅莉栖の手を取って、走り出した。

「ちょ、ちょっと岡部、引っ張らないで……!」

「予定時間にナイトハルトと合流できなかったら、終わりなんだ。少しでも早くたどり着くしかない」

「私、体力に自信、ない……っ」

「俺もだ」

 それに足も怪我している。さっき撃たれて負った傷は、深くはないが痛みが少しある。

 それでも、この程度で泣き言を言っている場合じゃなかった。

「……勝手ね、まったく」

 紅莉栖は諦めたようにかすかに首を振ったが、それ以上の文句は言わなかった。

 1年半ぶりの再会。積もる話はたくさんある。でも、それは脱出してからでも遅くない。俺は、そう自分に言い聞かせた。